特別寄稿

稲森亘航海日記

「稲森亘・航海日記」の著作権は「稲森亘」氏に帰属します

 

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 稲森亘航海日記

■1:新米通信士

■2:8千屯の貨物船

■3:新米局長

■4:ペナン島で・・

■5:パイロット・・

■6:太平洋の真ん中・

■7:父の死は

■8:ウミネコ売りと・

■9:マダカスカル島に

 

 

【稲森亘 航海日記・8千屯の貨物船】

第二話

 漁船での員外通信士を終えた私は、運輸大臣が発行する「海技免状(甲種船舶通信士)」を得て、一人前で船舶通信士として働く事になった。外航船は色々なものに乗船した。(950屯の鮮魚運搬船、2、000屯クラスの
南洋材運搬船、10万屯のタンカー、etc) 久しぶりに船員手帳と海技免状を取り出したが、紺色の表紙は塩が吹いていた。・・・

私の青春は、この免許状のように色あせて、記憶すら定かでなくなってしまった。少しずつ思い出しながら、
肩で風を切って歩いていた、生意気なあの頃の自分を今の胸を押さえて歩く自分に重ね合わせながら楽しく思いだして、「ぎんぽ」さんのパソコンのメモリ容量を減らしている・・・。

さて、名古屋港に入港していた貨物船は8,000屯であったが、真下から見るとすごく大きい。自動車運搬船と違って、何でも運ぶ貨物船である。しかし、何故かトヨタ自動車をカナダのバンクーバーに運ぶのである。

積荷となるトヨタ自動車(乗用車)は1台ずつしっかりとロープで車の4角を縛り、移動しないようにしていた。
これは、車同士が擦り合わせる事を極度に嫌った縛り方である事は素人の自分にも良く理解できた。
「車を擦り合わせると、弁償をしなければならない」と船長が言っていた事を思い出す。8,000屯ある貨物船のカーゴ室は結構広く、相当数の乗用車が固定されていた。


冬の日本から米国への航海は、海が相当に荒れるので、大変な事であった。例の、大気圏コースを通るのであるが、台風の墓場と言われていた。低気圧が大暴れしている。

航海中、毎日が大変な事ではない。海がなぎて、今にも海の上を歩いていけそうな感覚にさらされる事もある。

特に、昔の船は、何処でエンジンが停止するかわからない。 時に、エンジン停止で漂泊するものなら、エンジン部署は大変である。あの、暑苦しい船底で、エンジンと取っ組み合いをして、直さなければならない。陸のようにエンジニアを呼んで機械が直るまで待っている。・・・なんて事はできない。折角航海してきたのに、潮流によっては、船が動けるようになるまでに、相当の距離をバックしているのだから、   ・・・エンジン係りは必死である。

私達は、内心そんなトラブルを心待ちにしている。(いや!私は、と言ったほうが正確かもしれない)

船が止まるや、私達若者は、イカ釣り用の道具とタモをもって船の縁に向かう。いつの間にか3〜4人がイカ釣りをはじめる。イカは、面白いほど、かかる。水面を離れる時、水を吹きかける。その海水が船まで届く。墨をはく・・・

私達、若いものは、イカ釣りに一生懸命である。そして、複数の釣り人が釣るのであるから、相当な数が船上に上げられたと思う。

いつの間にか、その場所は、「包丁」と「まな板」を持った同僚船員で占められていた。そして、釣り上げたはずのイカは、すでに、彼らの胃袋におさまってしまっている。

そして、言う事は何時も同じ、「沖のイカは沿岸のイカに比べて、まずい」-----である。
大体、1日ほど漂泊した本船は、また、押し流された道を逆に航海を始める。
今は、港に着けば、1晩で荷物を揚げ、次の日には航海するというピストン輸送が当たり前になってしまったが、昔は、港に着いても、少なくとも2日は停泊していたし、上手くいけば、3〜4日は停泊、それに、航海途中で漂泊する。

特に通信士は港に入る少し前に、電波発信を封印するから港に着けば仕事がない(航海士は忙しい)

近くに有名な場所があれば、そこまで遊びに行けた。今は、懐かしく良き時代であった(乗組員にとって:会社は1日に数百万円の維持費と波止場借用代がかかるが・・・当時)食、住がただで、職場は居住区、航海日当(本邦と外洋)が付き、3日に1度は回覧される週刊誌が取り替えられ、仕官ともなれば、サロンマスターがつき、ベットメーキングはされ、仕事を終えると綺麗にされている。・・・

昔の船員はそんな特権があった(現在は知りません)私は、1航海ごと会社を替わっていたから、多少、変った船に乗船できたのかもしれない。

「ギンポさん!スミマセン。また、長文になってしまいました・・・」