特別寄稿

稲森亘航海日記

 

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 稲森亘航海日記

■1:新米通信士

■2:8千屯の貨物船

■3:新米局長

■4:ペナン島で・・

■5:パイロット・・

■6:太平洋の真ん中・

■7:父の死は

■8:ウミネコ売りと・

■9:マダカスカル島に

 

 【稲森亘・航海日記 新米通信士】

以下、「稲森亘・航海日記」の著作権は「稲森亘」氏に帰属します

第1話

尾鷲の漁船は、新米通信士で乗船(員外通信士)、餌運び、無線の暗号解読(3日に1回暗号文の意味が変わります。早く解読しないと、他の船に魚を取られてしまいます)、先輩乗組員が釣った「かつを」を冷凍ケースまで運ぶ事(昔は、冷凍設備がなく、水氷のイケス(行きは、生きたカタクチイワシを餌として入れる)が私の主な仕事でした。現在の私は、その時の局長さんに形成されました(今、生きておられれば、80歳は過ぎておられるでしょうか?)電鍵はその局長さんとの乗船では握れなかったが、22歳ぐらいの私を飲み屋に連れて行かないほど厳しいしつけをしてくれました。

局長の歳は言わないのでわからなかったが、当時40歳は過ぎていたと思います。私が、船で上級の勉強をしている時、黙ってみていてくれたし、国家試験を受ける時、喜んで、下船させてくれました。
そんな訳で、勉強は船で出来ましたが、港に着くと(尾鷲、焼津、石巻それに、桜島では(生きたカタクチイワシの収容)など))お風呂で体の擦りあい。洗濯を終えて船のイタル所に干しまくり、その後は、2人で今で言う喫茶店に行き、1本のビールを分け、15日分の仕込み(買出し)をして船に帰り、私が寝しずまったころ、自分は、・・・。

乗船期間中、私は毎回、船のお留守番・・・。でも、その局長さんのお陰で、ドウテイを守り、お勉強ができ、そして、待望のカーゴに乗る事が出来たのです。
秋から3月、4月までは、トンボシビを沖縄方面から四国沖まで追い、それ以降は、秋まで、「かつを」を追いかけました。魚を一番良く釣る船ではなく、釣り果は72隻前後の尾鷲のグループ船、で中頃の上ぐらいでした。

新造船の為、四国の金比羅山へ奉納に連れて行ってもらいました。その時は、局長は、奥さんから離れられなく?私が代役で、局長代わり、よし、三重の父母に電報を打とう。

その夢は、はかなく消えました。船長曰く:いなもりサン!局長が、『無線機は触らなくいい。乗っているだけで』と言っていたから。

漁があるときは良いです。’若いし’乗船している若者たちが、釣りで疲れるので、薄暗くドンヨリシタ冬の寒い太平洋、寒いので煙突の周りに集まります。魚影が無いので手持ち無沙汰。そんな時、彼らは発散する場所がありません。そうです。私が集中攻撃を受けるのです。ヘルメットの上から
ゴツンゴツンと私を叩きます。身体を叩きます。しかし、私は、「新米通信士」(資格は1級を持っていたのですが)、容赦なく、猫のごとくイタブラレルノデス。若者のはけ口として・・・

延縄は知らないのです!スミマセン!!。「トンボシビとかつを」を追っていました。船の左側に一列に並んで釣るのです。海の神さん(アマテラスオオミの神でしたっけ)が嫉妬をするとの事で、女性禁止と、何故か、右側は禁止区域でした。その為、釣りは右側では出来ません。でも、「木付き」と言われる、カツオが流木の下にうようよいる場合、私は借り出されて、右側のトモで、1人、カツオに遊ばれるのです。(カツオの引きの力が私の力よりズート上で、船まで引き上げられません)でも、1本でもあげればお金になるとの事で、禁止の右区域のトモ(ご存知のように、船の船尾)で釣らされていました。・・・  

☆:次回は、太平洋の真ん中で、エンジントラブル漂泊  2日間のカーゴ通信士をお送りいたします。