特別寄稿

稲森亘航海日記

「稲森亘・航海日記」の著作権は「稲森亘」氏に帰属します

 

■HOME・TOP

 

 稲森亘航海日記

■1:新米通信士

■2:8千屯の貨物船

■3:新米局長

■4:ペナン島で・・

■5:パイロット・・

■6:太平洋の真ん中・

■7:父の死は

■8:ウミネコ売りと・

■9:マダカスカル島に

 

【稲森亘・航海日記・ 父の死は赤道の真上で・・・ 】

第七話

 洋上商売を終えた本船は、一路マダカスカル島に向けて航海をする事となった。太平洋も静かに今にも海を歩いて渡れるような凪の日が続いた。漁船の通信士と異なり、商船の通信士はその仕事量において、桁が違うほど楽なものである。公衆無線電報は航海中に1ないし2回もあれば良い方で、毎日は、定時の気象と新聞をファックス受信するだけである。

 そして、日本を遥かに離れたこんな太平洋の真ん中で、新聞受信は伝播状態の悪化により駄目な日々も続く。そんなときの為に、新聞などは、とり溜めをしておく事が多い。気象は、Faxで受信できる範囲では受信するが、電波が届かない場合は、どうすることも出来ない。

 それらのトラブルは、乗組員は、以前の航海で経験しているから、Fax新聞が机に置かれていなくても、黙って何も言わない。狭い船上で、互いに、気まずくなるのを極力避けている。私としては、船上での唯一の楽しみは、新聞など、日本からの情報を得る事であるので、精一杯の努力はしていた。しかし、全く何も無い航海ほど、退屈であるものは無い。見えるのは、水平線に何1つの物体も無く、本船の、白く残した、航跡の帯の後と、夜その帯を見ると、プランクトンが、蛍のように光って海に散っていく蛍光塗料のような波の風景だけである。

 例により、1人無線室で仕事していた私は、これも例により、受信機の置かれた細長いテーブルの上に、足を乗せて、身体は椅子にあずけていた。椅子は、固定されて移動しないようになっているので、船が揺れても関係なく、安心して、両足をテーブルの上に乗せておることが出来る。

 確か、短波でJCS(当時、偶数時の0分からはJOS(長崎無線電報電話局)、奇数時の0分からは、JCS(銚子無線電報電話局))の無線電報の有無を知らせる穿孔機で穴あけされた船舶のコールサイン(私が、JOSに勤めた時は、このコールサインの穴あけもした)その細長いテープを光学器械で読み取り、自動発信するリストが電波に乗って世界中の船場に送られる。

 従って、ソロソロ電報が入るな、と経験から感じたらその時間帯に短波受信機の周波数を合わせて、本船のコールサインの有無を聞くのである。私の場合は、短波受信機はJCSの周波数に合わせてQTC(電報在り)情報を必ず聴くようにしていた。インド洋方面に行く船は、大体においてJOSを聴き、アメリカの方に行く船は、JCSを聴くのがそれぞれの海岸局の受け持ち区域から当然の方法であったが、私の場合は、JOSとJCSの両方に入圏通知をしていたので、JCSも聴いていた。

 大体において、普通は、30分程度でそのQTC発射は終わるのであるが、本船のコールサインを確認すれば、JCSから、JCU(と思ったが、4MHzから22MHzまでこれら、2大無線短波局はたくさんの周波数を持っていたと思う)周波数とコールサインを変えて、JCSのあいている周波数で呼び出しをかける。

 すると、テロップのように自動送信していたJCSの呼び出しが止まり、手振りの信号でモールスの本船のコールサインの応答が聞えてくる。例えば以下のようである。

    JABCD de JCT QSW(又は、UP)224   JCSの信号
JCT de JABCD  QSW 112 OK UP     本船の発射

--------
周波数を例えば13.224MHz受信周波数に変えて、本船も13.112で電波をだして通信開始とする

    JABCD de JCT QTC 1 ・・・ ・−・ ・・・・ ・−・ −・・ーーー
本船: --- -・.-   (OK)

こうして、電報の送受信が開始され、電報を間違いなく受信すれば、

     JCT de JABCD QSL1 OK
- ・・−  ・・・− ・−  TU TOTOTU TOTOTOTU TOTU
T U VA (有難う さようなら)

としておわるのである。

 両足を机に乗せたまま、受信していた私は、それが、暗号電文であったので、気楽に受信していた。ただ、宛名が、「局長あて」であったことに少し

 「変だな」

と感じただけで、それほど不思議な気持ちも無く気楽に受信していたことを思い出す。

 受信をおえて、暗号電文であったので、暗号表を取り出し、翻訳していくと、

 「ゴソンプサマノ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

の書き出しで始まっていた。それは、我が父の他界の知らせ電報であったのである。

 父は、私が別の船に乗っていた時、例の昔のテレビ(白黒テレビで、ブラウン管が今のように平たくない)で何かのニュースを見ていて、私の母を呼び、当時、中風で言葉が不自由であったが、片言の壊れた言葉で「亘 が 死んだ。 船が沈没した」と他船の遭難ニュースを息子の船が沈没したと勘違いした事があったと、いつか母は私に語っている。また、その母は、毎日のように、母が決めた私の氏神さんにお参りし、

 「板底一枚下は、地獄だから・・・」と頭を土にすり合わせて私の身の安全のために願をかけていたと、母亡き後、長女が私に語った事を今でも鮮明に思い出す。

 父の死を暗号解読をする事により、知った私は、背広姿に身を包み、船員である特権で、免税品のイギリスのタバコであったと思うが、「ダンヒル」の青箱をそれから丸1日たきつづけたのである。それは、タバコの好きな父にせめてもの供養として、私が出来る唯一の親孝行であったと思う。

 そんな私の異常を感じた船員たちは、誰一人として私に近づいて来る者もなく、また、その後の航海中でも誰一人として、私の父の死を口にする者は無かった。これは、海に生きる者達の暗黙の了解ごとであるのかもしれない。誰に言われる事も無く、誰が決めた事でもない。何にも触れない、海の男の友情であるのかもしれない。

 後に、操舵室で海図を父の死の時間に合わせて航跡をたどったら、赤道の真上を通過中であったのが判った。これは、奇跡に近い。赤道という、海に引かれた、見えない線。その真上を本船が通過中に父は旅立ったのである。

 父の年齢に近づいている私が、そんな悲しい思い出を鮮明に思い出せるのも、赤道通過中であるという現実を、父が私の記憶に留めたかったのではなかったのだろうかと感じている。そして、私ももし、生きれば父の他界の歳、72歳までは生き続けたいと考えている。母は、65歳の若さで他界してしまったが、・・・

 次回は:(シンガポール港で)「山猫売り」への悪ふざけの司厨長と私・・・    をお送りいたします。航海記も終わりに近づいてきました。