特別寄稿

稲森亘航海日記

「稲森亘・航海日記」の著作権は「稲森亘」氏に帰属します

 

■HOME・TOP

 

 稲森亘航海日記

■1:新米通信士

■2:8千屯の貨物船

■3:新米局長

■4:ペナン島で・・

■5:パイロット・・

■6:太平洋の真ん中・

■7:父の死は

■8:ウミネコ売りと・

■9:マダカスカル島に

 

【稲森亘 航海日記】

第五話

パイロットステーションビルを投光器で・・・

 「ペナンへ行く前に、シンガポールで機材を船積みせよ」・・・もう35年以上の年数が経ってしまったので、正確には覚えていないが、欧文普通文での指示命令は、およそ3行であったと思う。そして、例のごとく、パイロットステーションビルが、ひときわ高く煙突のようにそびえ立つ港付近から遠い場所に自船はアンカーをおろした。

 4回ばかり、タンカーでシンガポールの港近くのビルの建物をみながら、「寄航すればいいのにナ・・・」と通過した思いがよみがえる。それが、今回は、シンガポールに上陸できるのだ!  − どんなに岸壁から離れていても、必ずサンパン(乗組員と家族の為の臨時連絡船で代理店が準備してくれる)が迎えに来る −

 例により、午前10時と午後3時の2回、本船に立ち寄る。最終便は午後3時であるが、午後5時に、港に停泊する他の船の為に最終便を増発するそうだ。

 という事で、私は、午前10時のサンパンに乗り、午後5時の最終便に乗るようにした。この時、甲板員の同僚乗組員が声を掛けてくれた。

 「いなもりさん!町見物に行きませんか、寺をタクシーで回りましょうよ」。私に、断る理由はない。「はい!いきましょうか?」・・・こうして、私達は、シンガポールの岸壁近くの町を散策する事にした。そして、最終目的は、寺院やヘビ寺など観光地をタクシーでまわることであった。

 サンパンを降りて、木の板で作られた、枕木のような桟橋に着くと、そこには、’リンタク’が数台ほど待っていた。恐らく、サンパンを下船した我々を乗せるのが目的であろう。

 (リンタク:現在でも東南アジアのテレビの放映をみると、自転車に人力車の車輪と人が2名ほど乗れる場所を確保した人力用車両で自転車で牽引するもの=現在、テレビで見るのは、自転車は後ろに付いていてその自転車でおしながら走行する物であるが、当時私たちが乗ったのは、自転車でひっぱる形のものであった)

 「港のそばの公園に連れて行ってくれ」といったのであるが、観光客専門の土産屋に連れて行かれた。(これも、現在は、日本の女性観光客が連れて行かれるあのビルである)

 我々は、そのみやげ物屋(今、アルバムを開くと、懐かしい35年くらい前のシンガポールの建物が写っている)を抜け出して、タクシーに乗り、「ヘビ寺」をはじめ、今では、その名前すら記憶にない寺々が写真に貼られている。

 同僚甲板員とのシンガポールでの寺などの観光旅行を終えた私は、本船へ最終便のサンパンで戻った。次の日、入港中は全く仕事のない私は、例により

ボーとして、一日を過している。

 船長が、シンガポール沖に停泊した自船で所作なく海を見つめている私に近づいてきた。船長曰く:

   「局長!パイロットが来ないんだよね!もう既に出航時間より1.5時間が過ぎている。来ないんだよね!!」私は、元来短刀直入に言ってくれなければ、分からない性格である。何気なく、「そうですか」と答えただけであったと思う。温和な性格の船長は、それでも無言でしばらく私と同じように海を見ていた。

そして、いつの間にか、私のそばを離れていった。

 相変わらず、飽きもせず、私は、海を眺めていたと思う。それから、時間的には30分ぐらいは経過したのだろうか?船長が、私のそばに再度やってきた。

 「局長!パイロットが何時もより遅れているんだよネ。本当なら、本船は既に出航しているはずなのだが・・・」

 そして、船長の言葉は止まった。私といえば、相変わらず、自分の域に入っていた。「そうですか?」それが、私の返事であったと思う。

 船長:

 「局長!どうにかならないものかネ。このままじゃ本船は本日出航できない!」

 やっと、私は、理解した。私が、理解するまで、船長はパイロットとの約束時間からすでに2時間以上は過ぎている。ぼちぼち、暗くなってきていた。私は、船長に確認した。

 「船長!出港しなくてはいけないんですね。何時に出港の計画ですか?パイロットには連絡できているのですか?」

船長:

 「うん!代理店を通して本船の出港時間は既にパイロットステーションに連絡済である。もうそろそろ予定出航時間より3時間ばかり遅れているし、パイロットボートも来る気配がない」

私:

 「分かりました。投光器はありますか?それに甲板員を3名ほど集めてください」

 私は、パイロットに投光器の灯りでモールスを打つ事にしたのである。英語なんてからきし駄目な私は、平文を電報中継紙に書き、それを、甲板員の1人に私が読める位置で立たせ、投光器を持って、船長に、「パイロットビルはあの、白い煙突のような高い建物ですか?」と確認した。

船長:

「うん。そうです」

私は、投光器を胸の前に構え(当時は、心臓バイパス手術をしていないので、それなりに元気であった)パイロットステーション事務所があろうだろう白い煙突のような高いビルに向けて、光を発射した。周囲は既に薄暗くなっていたので、シンガポールの薄暗い港町に、投光器で映し出された、ビルが白く浮かび上がる。

 相手が、応答するまでは、投光器のビームは煙突のようなその高いビルデイングを照らし続けている。ビームだから、光は分散する事もなく、一直線にビルを照らし続けている。

 なかなか応答してこない。恐らく、20分は照らし続けていただろうか、こちらは、モールス信号で光の断続をするのである。あたりも暗くなり私の書いた欧文平文字が見えにくくなってきた。

 その時である。岸壁の海水すれすれの所に、一台の乗用車が走ってきた。(車の形は分かるが、識別できるほど近くではない)2人位だろうか、人が降車した。そして私の投光器の信号を見ていたように感じた。

 「誰か来て、投光器を見ているぞ!もう少しだ。光を当て続けるぞ!」

 しばらく、様子を見ていた2人は車に乗り引き換えしていった。

 それでも、私は、相棒3人と投光器によるパイロットステーションビルに信号を送り続けた。車が、来る前に、パイロットステーションからも何か投光器で発信しているようであったが、残念ながら相手の光の信号を解読できなかった。

 しばらく、投光器での信号発信を継続した。今から考えると、当時の投光器でも長持ちする物だなと感心して本文を思い出しながら書いているが、恐らくこの投光器は本船の120V ACに接続されていたのではなかった

ろうか?その辺は、甲板員の仲間がやってくれていたので定かでない。

 しばらくして、船長が、あの温和な性格からは、理解できないような大きな声で、

 「パイロットボートがこっちに向かっている!あの白い船だ」

と叫んだような気がする。

船長が、パイロットボートだと叫んでから、ほぼ、25分は過ぎただろうか、先ほどまでの土壇場騒ぎは本船から消えており、パイロットも何事も無く操縦席に入り、そして

本船はパイロットにあやつられながら、外国船でひしめく港を後にした・・・。

空が明るくなり、次の日が来た。そして、昨日の事を忘れたかのように、本船は、その小さな身体をくねらせながらボルネオ(だと思う)のペナン島へ向けて航行してる。

 例により、ボーと海を眺めている私に、あの温和な船長が近づき、「昨夜はありがとう!」と言って、操舵席に入っていった。

 次回:大海原での韓国漁船からマグロの買い取り     をお送りします。